第3章 「能力主義」の壁を超える
コミュ力という魔物
いかにして『職場の傷つき』を当たり前にしない職場をつくっていけるか?
「能力」とはどう折り合いをつけながら、お互いの合理性を大切に、誰かに一方的に口を塞がれることなく生きていくことができそうか?といった矯正・連帯の道筋を見つけていきたい
- 次の3点が企業の変革、思考のトランスフォーメーション、社会の進化に不可欠
- あなたも私も、揺れ動いている(「能力」とは刻々と変化する「状態」)
- 能力を上げるのではなく「機能」を持ち寄る
- 試行錯誤すべきは「組み合わせ」(他者比較による序列の無効化)
あなたも私も、揺れ動いている
職場で「人なり」や「能力・資質」として語られれている多くが、あくまで「状態」の話
- 事例としては、旅行代理店で働く方の手配ミスによる、それぞれの視点で見たもの
みんなの事情、みんなの「傷つき」
- 営業を手配した本人、上司、手配された側それぞれ傷ついている
- どっちが「正しい」など単純な話しではない
- 正しいのは誰か?ではなく、今は状況・場の歯車が噛み合っていない「状態」に陥っているのだな
- どう歯車を噛み合わせていこうかな?と考える
勘違いされる「リーダーシップ」
- 「〇〇のように自分には見えているのですが」、という対話のトリガーが意外と難しい
何か新しいことを推進するのが、敏腕なのではなくて、今起きていることを、決めつけずに議論の遡上に載せること。これこそが、意外かもしれませんが、組織運営の屋台骨
「なぜ、これができていないのか?」阻害要因を探す
- 何が阻害してきたんだろうと、組織内でしつこく問う
「機能」を持ち寄る
状況の違いは決して、「能力」の違いとイコールではない
これは、「甘え」なのか?
私たちの目にみえているのは、その「状態」、その時々の姿であって、それがある人の「低い能力」だなんて、おごるのもたいがいにせねばなりません。また同時に、その個人の「状態」は職場環境との相互作用であることも、忘れてはなりません。
個人ひとりの「能力」「やる気」の問題として断定し、事態は好転するのでしょうか?
- 個人の能力として必要なのではなく、組織として必要な機能がある
- 優秀な人は、すべての「機能」をでき、組織が求める「機能」をその瞬間にうまく発揮できていないことを、簡単に「使えない人」として、個人の能力に還元して語ってはいけないということ
答えは「組み合わせ」に?
こう見ているけど、どうかな?ではじめる対話
生産性、効率性が叫ばれている昨今において、互いの違いを議論の俎上にあげ、どう協力関係をつくっていくか、について話し合う対話は決して巻いてはいけない