第2章 「職場で傷つく」と言えない・言わせないメカニズム
次の3つのステップが「職場で傷つく」と思いもしない・思いたくない・ましてや言えない社会を、生み出していると考えます。
- 問題の個人化により、「職場の傷つきなんて個人的なことだよね」と軽んじられる
- 個人的な中でも「能力(資質)」の問題だと追い打ちをかけられる
- さらに中でも「コミュ力」の問題とすることにより、とどめを刺される
「個人の問題」にする
- なぜ「職場の傷つき」は些末な問題だと軽んじられるのか?
- 反対に、職場で問題とされ議論されるのはどういうことか、から掘り下げる
正統な?職場の「問題」
- 組織の存続を揺るがす事態は当然問題視さえる
- 売り上げや従業員の離職が相次ぎ、運営がままならない・・など
業績に影響度が高く、足を引っ張っているのはどこなのか?戦略?組織体制?などなど、分析・検討が図られる
- 単独で「ここが問題」というような話はなく、多くは複合的なので打ち手をリソース配分と合わせて検討していく
「職場の傷つき」なんて個人的なこと
上記のような組織の存続をゆるがす事態と比較すると、限られた範囲の「個人的なこと」と思われてしまう
職場の傷つきが「個人的なこと」とすると誰にとってどんないいことがあるか
個人的なこと = 気の毒だけど自分でなんとかすべきこと
- 個人的なこととすると、会社側にとって、大変好都合
- 会社にとって「どうこうする義理も責任もない」とできる
- かつ順風満帆な社員にとっても、自分には関係のない、一部の人に起きていること、かわいそうにと目の前の自分の仕事に集中できたらそれでいい
「どうにかする」ができる人とできない人
- 個人でどうにかする・すべきと問題設定していくと、社会的に暗黙のうちに合意された価値観「能力主義」が出てくる
「能力主義」とは、この世の限りある資源(リソース)を納得性高く配分することで、安定的な社会統治を可能にするための原理原則
個人の「能力」をもとに(ある人のできる、できない)「取り分」を決めること
能力主義が浸透した社会では、「傷つき」とは自身の思う通りにできなかった、能力・資質・適性の問題で起きてしまっていると言えなくない
できる人なら傷つかない。
傷ついた、とか泣き言を言うのはできない人
「問題の能力主義化」という追い打ち
**能力評価によって、人生が水路づけられる。
「能力」という目に見えないもの
職場の傷つきを能力はなかったことにする正統な理由かのように見せているのは、「能力」の虚構性にある
能力は個人の内側に固定的に存在したものではない
誰と何をどのようにやる環境にいるのか?それ次第で自身のあり様はいかようにも変幻自在
- 職場の傷つきも、「こういう能力があれば傷つかないのに」ではなく、その人の能力の問題というより組織の「関係性」に課題がある状態のこと
「コミュニケーション能力」というとどめ
「コミュ力」「リーダーシップ」「主体性」などをはじめ、さらには「美意識」や「鋼メンタル」に至るまで、とらえどころのなさそうな精神性にまで「能力」の職種は伸びています
優秀ならば傷つかない?
人間の「あるべき姿」のようなものが、無限に増殖している
- 怒らない技術
- 愛され力
- ご機嫌